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| ふたりの想い出|くぼちゃんのどんまい|
私はひまわりが大好きです。
夏に咲くひまわり。
太陽に向かって咲くひまわり。
そんなひまわりの咲く真夏に、私は生まれました。
そして今まで、たくさんの人に支えられ、生きてきました。
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さみしかった幼少時代
でも悲しみのヒロインじゃなかった
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私は、父に育てられました。
幼い頃、父は魚屋で働いていました。
魚を卸すため、夜も明けぬ早朝から、父は出かけていきました。
その父の後ろ姿を、私は見送ったことがありません。
父が家を出ていくのがさみしくて、いつも布団の中にもぐっていました。
時計をぎゅっと抱いて、暗い布団の中で、
父の帰ってくる時刻に時計の針が動いてくれるのを、じっと待っていました。
さみしかった思い出はたくさんあります。
でも悲しみのヒロインにはならなかった。
どうして大人は、一緒に暮らせなくなってしまうんだろう と思ったことはあります。
でも、だからといって、自分をかわいそうだとか、思ったことはありませんでした。
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優しかった父
遠足は、豪華おせち弁当
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優しい父でした。
父との思い出は、数え切れないほど、あります。
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小学時代。
遠足の日のことでした。
朝からはりきってお弁当を作ってくれた父。
その中身は、ぶり、車えび、紅白かまぼこと、まるでおせち料理のような豪華さでした。
「活きのいいのが店に入ったから、取っておいた」
と父はとても得意気でした。
でも私には、隣に座っていた友だちの、
色とりどりにおかずが詰められているかわいらしいお弁当の方が羨ましかった。
だって、車えびなんて、大きすぎて、
お弁当箱の場所をかなり占めているうえに、食べにくいんです。
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中学時代。
家で、自分の制服にアイロンをかけていた私は、そばを通りかかった父に、
「お父さん、ちょっと霧吹き取ってくれない?」
と声をかけました。
すると父は、台所に行って、手ぶらで近寄ってきたかと思うと、
何を思ったか急に、
「プハーーッ」と、制服に向かって、口から水を勢いよく吹きかけたのです。
この時は、さすがに父に向かって「何するんね!」と一喝してしまいました。(笑)
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父の人柄が
すべて自分に返っていた
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そんな父でしたが、
私は父に、愛情いっぱいに育ててもらったと思っています。
そして父は、きっと周りの人たちにも、よくしてあげていたのだろうと
思います。
父の知人の家で、お風呂に入れてもらったり、
お弁当を作って持たせてもらったり、
お金を持っていなくても、行きつけのお店でご飯を食べて帰ったり、
そんなことがたくさんありました。
きっと、あとで父がお店に行って、
お金を払ってくれていたのでしょうが、
今思えば、私がそんなことができたのも、父の人柄だったのだと、
今ごろになって思い返されます。
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震えが止まらなかった
はじめて人前で泣いたあの日
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父は、私が中学3年の時、脳出血で倒れました。
残暑のきびしい9月、私は学校から救急病院に駆けつけました。
すぐに手術となりました。
幸い、命はとりとめましたが、後遺症で右半身麻痺となりました。
あの日
震えが止まりませんでした。
父が父でなくなってしまいました。
私はあの時、はじめて人前で泣きました。
暗い夜、家の近くの小さな公園で、ブランコに坐って、
涙を流しました。
その時、私の隣で、ブランコに坐って泣いている人がいました。
松岡でした。
松岡は、ずっとずっと、いっしょに泣いていました。
その日の公園の、薄暗い街灯に照らされたブランコやすべり台が、
今でも私の目に焼き付いています。
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高校時代
まじめな高校生じゃなかった
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父は長い入院生活を終え、家に帰ってきました。
私は高校生になっていました。
その時から、父の介護生活が始まりました。
決して真面目な高校生ではありませんでした。
学校を無断で休んだり、授業をサボって、部室で
寝ていたこともありました。
今の時代だったら、「不登校」と言われていたかもしれません。
でも本人には全くそんな認識はなかった。
あの頃は、ただ誰かに自分のことを気にかけてほしい
と思っていただけだったのかもしれません。
そんな私に、周りはとても温かかった。
クラスメートも、クラブのメンバーも。
遠征の費用は、クラブの顧問の先生が全部出してくれました。
そんな高校生活を、私は過ごしました。
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アルバイトの帰り道
バスに乗るお金がなかった
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高校を卒業すると、進学し、保育士の道を選びました。
アルバイトをしながら、大学へ通う毎日となりました。
アルバイトが終わり、夜遅く、帰りのバスを
待っていた時のことでした。
私は、バスを待っている時に、
お財布に、帰りのバス賃が入っていないことに
気がつきました。
バスはまだ来ていなかった。
でも、とても疲れていました。
ここから歩いて家まで、とても帰れそうに
ありませんでした。
そのうち、バスがやってきました。
私は、お金を持っていないことをわかって、
バスに乗りました。
私の家は、終点のひとつ手前のバス停近くにありました。
私がバスを降りる頃には、
バスの中は、他の乗客は誰もいませんでした。
バスが止まり、私は運転席に近づいていきました。
そして、
「すみません。お財布を忘れてしまいました。」
とうそを言いました。
運転手さんは、私の顔を見て、
いつも乗っている子だと気づいたようでした。
そして、
「今度乗った時に、2回分お金入れてね」
と言って、バスを降ろしてくれました。 |
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私にはわかっていました。
バスの運転手さんが、私がお金を持っていないのに
気づいていたことを。
それでも、
「今度でいいよ」と、気づかぬふりをしてくれた。
あの時の運転手さんのことは、今でも忘れられません。
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あったかい晩ご飯
家族っていいな…
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この頃から、私は、人の心の温かさ、
また、人に支えられて生きていることへの
ありがたさを、人一倍感じるようになりました。
幼なじみの松岡の家に、
アルバイトが終わった夜遅くから、
晩ご飯を食べに行ったことも何度かありました。
帰りが遅くなっても、松岡はご飯を食べずに
私を待っていてくれました。
食卓には、松岡のお母さんの手作りのあったかい
料理が並んでいました。
家族のあたたかさを、感じたひとときでした。
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お団子にはしゃぐ父
子どもが大好きだった父
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父の介護をしている間も、
いろんな人に助けてもらったし、
いろんな人に支えてもらいました。
高校を卒業し、松岡は、看護師の道へ進みました。
松岡の通う看護学校は、
父が一時入所していた、職業訓練校の近くにありました。
秋、文化祭シーズンになると、
看護学校も看学祭というのがあって、
父は、松岡に招待してもらい、
看学祭に参加しました。
半身の不自由な父に、
松岡の友人はみんな優しくしてくれ、
さらに父の大好物の、お団子を出してもらって、
父はそれはもう大喜びだったそうです。
松岡は、その時の様子を、語り草のように
今でも話してくれます。
父が晩年の頃のことです。
松岡の息子が、まだ5歳くらいの頃、
「おじいちゃんの絵」といっては、父の顔を
書いてくれた絵を、
父は、それはそれは喜んでいました。
その父の足元で、9ヵ月くらいの
松岡の娘が、はいはいしたり、つかまり立ちしたり
するのを、
またとても嬉しそうに父は目を細めて見ていました。
父は、子どもが大好きでした。
そんな父の喜ぶ姿が、私には一番心に残りました。
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人に支えられて生きてきた
この想いを、これからは他の人に
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父を在宅で看取った後、
私は、松岡と、「オフィスケイ」を結成しました。
仕事に恵まれ、人に恵まれ、忙しく過ぎた
3年間でした。
ふと立ち止まり、じっと自分の胸に手を当てた時、
私には、今までとは違う、別のものが
見えてきました。

私たち、もっと何か違うことを
やらなくちゃいけないんじゃないのか?と。
物や情報が豊かになった時代に、
置き去りになってしまった大切なものがあるんじゃないか?と。
私は、今まで、
いろんな人に助けてもらったし、
いろんな人に支えてもらった。
その気持ちを、今度は他の人に
返していきたいと思いました。
また、31年間、共に過ごしてきた、
松岡との絆の中で、
松岡のことを思いやるように、他の人にも
思いやることができる自分になりたいと
思いました。
松岡は、父の亡き後、
こんな詩を書いています。
また来ようねと
約束した
父と見た桜の花
春の空に
あの頃を思う
血のつながりのない父に対して、
こんな風に思える気持ちを、
松岡は松岡なりに、
他の人に返していけたら…と
思っています。
私たち二人、
今までの想いを胸に、
これから、新しい生き方を見つけていきたい…。
そう思っているのです。
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